私は小論文と読者感想文が大嫌いである。
芥川龍之介、
有島武雄、
俵万智、
黒柳徹子、
様々な文豪たちもも小論文や読書感想文で名前がしられることはない。
畢竟、小論文も読書感想文も
矮小で世間の関心が薄く、意味の無いことである。
しかし、小中高では、
何故か小論文や読書感想文が重視される。
私は常日頃、このシステムに強い懐疑を覚えていた。
さながら、日教組が日の丸や君が代を断固拒否するように。
以前、授業の一環で小論文を企業に送り、赤ペン野郎に答え合わせをしてもらうことがあった。
私は出したくなくも、出さねばならず、結局ふざけて筆で殴った文章を出した。
その日、赤ペンから小論文が返ってきて、
いっちょ前に指摘をした赤文字が私のふざけた原稿に走っていた。
…これは文字の冒涜だよ。
許すまじ。
私の中で憤怒の焔があがった。
拒否をするなら、抗議をしなくては意味が無い。
この無明荒野の小論文という営みに
なんとしても、断固として反対の意を表したい。
いざ、やらいでか。
私は返ってきた小論文を
担任の腹先生の目の前に持っていき、
端を両手で持ち、先生側から内容が見えるように小論文を開いた。
そして、おもむろにに小論文を真っ二つに破ったのち、
さらにそれらを二つに破った。
これは若さの悪戯ではない。
無駄、無明を断固として拒否する
私のひとりシュピレヒコールである。
芥川龍之介、
有島武雄、
俵万智、
黒柳徹子、
様々な文豪たちもも小論文や読書感想文で名前がしられることはない。
畢竟、小論文も読書感想文も
矮小で世間の関心が薄く、意味の無いことである。
しかし、小中高では、
何故か小論文や読書感想文が重視される。
私は常日頃、このシステムに強い懐疑を覚えていた。
さながら、日教組が日の丸や君が代を断固拒否するように。
以前、授業の一環で小論文を企業に送り、赤ペン野郎に答え合わせをしてもらうことがあった。
私は出したくなくも、出さねばならず、結局ふざけて筆で殴った文章を出した。
その日、赤ペンから小論文が返ってきて、
いっちょ前に指摘をした赤文字が私のふざけた原稿に走っていた。
…これは文字の冒涜だよ。
許すまじ。
私の中で憤怒の焔があがった。
拒否をするなら、抗議をしなくては意味が無い。
この無明荒野の小論文という営みに
なんとしても、断固として反対の意を表したい。
いざ、やらいでか。
私は返ってきた小論文を
担任の腹先生の目の前に持っていき、
端を両手で持ち、先生側から内容が見えるように小論文を開いた。
そして、おもむろにに小論文を真っ二つに破ったのち、
さらにそれらを二つに破った。
これは若さの悪戯ではない。
無駄、無明を断固として拒否する
私のひとりシュピレヒコールである。
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清少納言と紫式部は世に言うライバル同士であります。
その影には親族で権力争いによって亀裂された二宮の退けないプライドがありました。
徹底的な実力を持ち切れ物と称された藤原伊周、そして彼の推す清少納言。
後に満月以外の月をも認めぬ藤原道長、そして彼の推す紫式部。
出典「シリーズ週刊マンガ日本史」朝日新聞
紫式部は自身の著書に、高い頻度で清少納言を罵倒しています。
特に有名な一節が「清少納言は何でもしってるような顔をしている」というものです。
対して、清少納言は紫式部を批判したことがありませんでした。
知識をいつも披露して喜ぶ清少納言と、
会話に知識を織り交ぜて楽しむ紫式部はソリが合わなかったのでしょう。
やがて、伊周の父・道隆は死去し、伊周は天朝さまに弓を引いて大宰府に左遷となり清少納言も都を去ります。
事実上、紫式部の勝利でしょうか。
出典「yahoo知恵袋」
しかし、ここでおかしいことがあります。
紫式部が中宮彰子に伺候したのは清少納言が宮仕えを退いてからはるか後のことで、
2人は一面識さえないはずです。
出典「Wikipedia」
以前、授業で古典の先生がおしゃってました。
「道長側は伊周を一方的にライバルししているが、とうに相手の一族は廃れたり、死んだりしている。
そう、この道長側はいまや存在しないような幻と戦っているんだよ」
清少納言は紫式部を批判したことがありませんでした。
しかし、清少納言は「女たるもの美貌がなくてはならない」とか、
「美しきものが顔を扇でかくすのはなおなまめかし」と美しさについて作中によく書いています。
それに対し、紫式部は『源氏物語』の中で、美人を描く時はただ「美人」とそっけなく表現しているにも関らず、
末摘花などの「不美人」なコの描写は細かく書いています。
出典「yahoo知恵袋 」
つまり、 おそらく容姿に自信の無い紫式部に対し、
「女が持ちえる真の価値」について
清少納言は絶対の自信があったのではないでしょうか。
その影には親族で権力争いによって亀裂された二宮の退けないプライドがありました。
徹底的な実力を持ち切れ物と称された藤原伊周、そして彼の推す清少納言。
後に満月以外の月をも認めぬ藤原道長、そして彼の推す紫式部。
出典「シリーズ週刊マンガ日本史」朝日新聞
紫式部は自身の著書に、高い頻度で清少納言を罵倒しています。
特に有名な一節が「清少納言は何でもしってるような顔をしている」というものです。
対して、清少納言は紫式部を批判したことがありませんでした。
知識をいつも披露して喜ぶ清少納言と、
会話に知識を織り交ぜて楽しむ紫式部はソリが合わなかったのでしょう。
やがて、伊周の父・道隆は死去し、伊周は天朝さまに弓を引いて大宰府に左遷となり清少納言も都を去ります。
事実上、紫式部の勝利でしょうか。
出典「yahoo知恵袋」
しかし、ここでおかしいことがあります。
紫式部が中宮彰子に伺候したのは清少納言が宮仕えを退いてからはるか後のことで、
2人は一面識さえないはずです。
出典「Wikipedia」
以前、授業で古典の先生がおしゃってました。
「道長側は伊周を一方的にライバルししているが、とうに相手の一族は廃れたり、死んだりしている。
そう、この道長側はいまや存在しないような幻と戦っているんだよ」
清少納言は紫式部を批判したことがありませんでした。
しかし、清少納言は「女たるもの美貌がなくてはならない」とか、
「美しきものが顔を扇でかくすのはなおなまめかし」と美しさについて作中によく書いています。
それに対し、紫式部は『源氏物語』の中で、美人を描く時はただ「美人」とそっけなく表現しているにも関らず、
末摘花などの「不美人」なコの描写は細かく書いています。
出典「yahoo知恵袋 」
つまり、 おそらく容姿に自信の無い紫式部に対し、
「女が持ちえる真の価値」について
清少納言は絶対の自信があったのではないでしょうか。
小沢一郎は中国で「曹操」とも称されこともある。
そんな曹操のちょっとした逸話。
*
曹操とは三国時代、
魏国を建立した‘乱世の奸雄’と称される人物である。
蜀の劉備を主人公とする三国志演技では
曹操をライバルとしており、悪役の印象が強い。
ただ、史実では確固たるシステムで軍や国を統治した実力者である。
そんな強敵曹操の最期はいがいと哀愁がある。
床に伏した彼は家臣を集めて、こう言ったとされる。
「わしが死んで100日はわしのことを忘れないでくれ。
そして100日経ったらわしのことは忘れてくれ」
やがて、曹操が死んで三ヶ月ほどしたころ、
曹操の右腕といわれた夏候惇も後を追うように没した。
そんな曹操のちょっとした逸話。
*
曹操とは三国時代、
魏国を建立した‘乱世の奸雄’と称される人物である。
蜀の劉備を主人公とする三国志演技では
曹操をライバルとしており、悪役の印象が強い。
ただ、史実では確固たるシステムで軍や国を統治した実力者である。
そんな強敵曹操の最期はいがいと哀愁がある。
床に伏した彼は家臣を集めて、こう言ったとされる。
「わしが死んで100日はわしのことを忘れないでくれ。
そして100日経ったらわしのことは忘れてくれ」
やがて、曹操が死んで三ヶ月ほどしたころ、
曹操の右腕といわれた夏候惇も後を追うように没した。
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私の新しいブログです。
「15でオカマ オカマで女優」から一部記事を持ってます。
おもに日記を書くつもりです。
*
「ともちーの思うこと」
(ココのことです)
私の新しいブログです。
「15でオカマ オカマで女優」から一部記事を持ってます。
おもに雑学や評論を書くつもりです。
*
「15でオカマ オカマで女優」
私の旧・ブログです。
15歳~20歳のころにやっていた、日記と評論を兼ねてたブログです。
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